アメリカ国有林管理の歴史的変遷に関する研究

大田 伊久雄

要約

 アメリカ合州国の国有林システムは、1891年の保留林法による公地の保護に始まった。その管理を担ってきたのが、農務省森林局である。かつて森林局は、連邦政府の中でも極めて優秀な組織であると賞賛されたが、近年は伐採による自然破壊などで環境保護団体からの厳しい追求にさらされてきている。実際、大面積皆伐による森林崩壊やオールドグロース林の伐採による稀少生物生息域の破壊など、問題となるような活動が行われたことは否定できない。しかし、全国的に歯止めなく進行した森林資源の荒廃という19世紀後半の状況から考えると、現在のアメリカの森林資源状況は目を見張るような回復を見せており、その中心的役割を果たしてきたのが国有林およびこれを管理する森林局であった。
 本論文の目的は、アメリカ国有林システムにおける森林管理に関して、その成立段階から今日に至る100余年の歴史的な変遷をみる中で、その理念と方法とを基軸として歴史的事実を分析し、国有林という公的森林の管理政策においてどのような時代的変遷が成されてきたのかを考察することにある。序章では、まず上に述べたような課題設定と分析の視角を示し、次いでわが国およびアメリカにおける先行研究の調査を行った。

 第1章では、基本法が成立する1897年までにおける国有林の成立過程を論じた。19世紀後半までのアメリカ連邦政府の土地政策は公地の民間への売り払いを基本とするもので、所得税を徴収しなかった当時の連邦政府にとって、土地の売り払いによる収入は財政を支える柱の一つであった。大陸の西に広がる広大な土地とその資源の活用は、財政政策であると同時に増加する人口を吸収させ経済発展を成し遂げるための社会経済政策でもあった。しかし、民間の手に移った森林ではカット=アンド=ランと呼ばれる収奪的林業によって荒廃が進んだ。
 そうした状況が明らかになるにつれ、事態を憂慮し、自然を大きく改変する人間の行為に警鐘を鳴らす動きが現れた。1864年に著され現在なお読み継がれているマーシュの『人と自然』などの著作や、ブーン=アンド=クロケット=クラブなどのスポーツハンタークラブによる自然保護運動は、人々に大きな影響を与えた。やがて、残された連邦政府所有地における森林を保護し、将来にわたって生産性の高い状態に保つような何らかの手だてをすべきであるという動きが東部の知識層からわき起こった。
 1876年には政府も公式に森林問題の調査を行う職員を採用し、森林に関する情報収集を中心とする調査研究を行うようになった。1881年には森林局の前身となる森林部が農務省内に設置され、ドイツ出身のフォレスターであるファーノウが長官となってからは生物科学・経済政策・林業工学など幅広い分野にわたる研究が開始され、数多くの科学的・技術的レポートが出版された。
 議会でも、公地政策の見直しおよび森林の保全と有効な利用に関する論議が高まり、1891年には大統領に対して公地の中に民間への払い下げ対象から除外し保護すべき森林を指定する権限を与える保留林法が制定された。これを受けてハリソンおよびクリーブランド両大統領は数千万エーカーの保留林を設定した。同法は、アメリカの土地政策にとっては画期的な法律であり、全国的な森林荒廃の進行に歯止めをかける大きな第一歩であった。1897年には基本法が成立し、保留林の管理目的として、(1)森林の保護・増進(2)水流の好適条件の確保(3)合州国市民の利用と必需のための継続的木材供給、の3点が明文化された。

 第2章では、森林局初代長官ピンショーによる国有林システムの拡大と整備について論じた。保留林は公地の中で保護すべき森林を指定したものであったことから、その管理は内務省全国土地事務所が行っていた。それゆえ、1898年に森林部長となったピンショーも、当初は私有林に対する施業計画作成や植林補助などに力を入れた。しかし、1901年に改革主義の盟友セオドア=ローズベルトが大統領に就任した後は組織整備と人材育成を積極的に進め、1905年には保留林の農務省への移管を勝ち取った。国有林管理組織としての森林局はこの時からスタートした。
 まもなくピンショーは、組織の名称をBureau of ForestryからForest Serviceへと改め、保留林の呼称も国有林と改めた。さらに彼は、現場職員へ最大限の裁量を与える分権的な組織を構築し、国有林管理における資源管理の根本精神を「最大多数の人々に最良のものを長期にわたって」提供することと定義した。アメリカ国有林における現場主義と国民への奉仕という姿勢は、この後長く森林局が高い評価を獲得する上での礎石となった。同時に、全国的に森林の荒廃が進み木材飢饉が危惧されるという状況の中で、国有林では将来需要に対して木材資源を育成し保管的に管理するという基本姿勢が築かれた。
 さらに彼はローズベルトの力を借りて新たな国有林の設立と既存国有林の拡張に努め、1905年から1909年までの4年間にその面積は2.3倍の1億7,200万エーカーへと拡大された。特に、1907年の農業予算法によって西部6州における大統領の国有林設定権限が奪われることになった際に、法律発効直前に1,600万エーカーという広大な面積の保留林指定を断行したことは、「真夜中の保留林」事件として語り継がれている。
 このほか、全国を6ブロックの地方局に分ける国有林管理体制の確立、これまで無料であった林間放牧への利用料金制度の導入、研究体制の整備と研究所の設立など、ピンショーが在任した12年間は森林局と国有林にとって大きな飛躍を遂げた時期であった。

 第3章では、1910年代および20年代において、ピンショーの後を受けた第2代長官グレイブスおよび第3代長官グリーリーの二人が、いくつかの危機を乗り越えつつ国有林管理体制を安定化させ成長させていく経緯について論じた。この時期には、ピンショー時代の急速な国有林拡大への反動として、西部諸州では州政府や開拓農民からの国有林開放要求が強まった。また連邦政府内でも、内務省に国立公園局が設置され、さらに国有林の内務省への再移管論が出るなど、森林局は多方面からの厳しい圧力と戦わねばならなかった。
 また、グレイブス長官自らが第一次世界大戦でフランス戦線に参戦するなど職員の多くを兵役にとられた森林局であったが、面積拡大によって生じた組織管理上の非効率性の是正と職員の拡大などの課題に地道に取り組んだ。しかし、予算の制約から職員の給与は極めて低い水準にあり、有能なフォレスターの流出も少なくなかった。
 1911年のウィークス法は、森林火災防止に関する州政府への補助金制度の制定や、東部において国有林設定のために民間から水源林を購入する制度を確立した重要なものであった。アパラチア山脈をはじめとする当時の東部の森林は総て民間に売り払われており、伐採後荒廃したまま放置されていたところも多かった。そうした土地を買い戻して植林や林床整備を施し、国有林として将来的には資源としても利用できるようにするのがこの法律のねらいであった。1924年にはウィークス法を拡張強化するクラーク=マクナリー法が制定され、木材生産目的での国有林購入も制度的に可能となった。
 一方、1920年に連邦議会に提出された森林資源状況に関する報告書カッパーレポートによれば、当時のアメリカにおける森林蓄積の成長量と消失量は、前者が年間60億ボードフィートであるのに対し、後者は260億ボードフィートと4倍以上の開きがあるとされた。森林伐採のほとんどは私有林においてなされていたことから、議会では私有林における森林施業に法的規制を導入するという問題がたびたび審議されたが、連邦レベルにおける拘束力の強い規制か各州レベルでの柔軟な対応かで意見が分かれ、結局いずれの法案も議会を通過することは出来なかった。しかし、私有林における非効率な木材利用と破壊的な森林伐採方法はこの時代においても大きな問題であった。
 森林局の組織体制に関しては、この時代に国有林システム・研究・州および私有林という三本柱が確立されている。現在でも森林局の主要部門を構成しているのはこの3部門である。

 第4章では、1929年に始まる大恐慌から第二次世界大戦までの多難な時代における国有林情勢をみた。大恐慌の影響は木材産業にも現れ、木材需要量の減少により倒産が相次ぎ、国有林における木材生産もほぼストップした。1933年に大統領に就任したフランクリン=ローズベルトは大規模な公共事業による不況対策を骨子とするニューディール政策を打ち出したが、その一つ市民保全部隊(CCC)では、国有林と森林局を中心として森林資源の保全事業と各種の建設工事が行われた。この時期は、森林を保護し育成するという資源保管的な国有林管理の姿勢が最も色濃く打ち出された時期であったといえる。
 CCCにおける活動は多岐にわたるが、特に防火対策、病害虫対策、林内路網の整備拡充に力が注がれた。道路網の整備は、木材生産に加えて防火および消火活動やレクリエーションなど国有林機能の発揮に関して極めて重要な役割を果たすものであり、森林局はCCCによって飛躍的に林内路網の充実を図ることができた。さらに、国公有林のみならず私有林においても防火対策を進めたことはアメリカ林業全体にとって大きな進歩であり、さらに250万人とも350万人ともいわれる若者をCCCに受け入れる中で、森林・林業に関する知識を広く普及させたことも極めて大きな意味があった。
 さらに1934年の全国産業復興法においては、私有林における森林施業を規制する「文書X」が組み込まれた。ここで定められた施業規制としては、火災などの被害から成木および若木を守るような森林施業を施すべきこと、伐採中の若木へのダメージを防止すべきこと、伐採跡地の更新をはかるべきこと、未成熟木などをいくらか残すようにすること、などであり、保続的森林管理を義務づけるものであった。しかし、同法は発効からわずか1年後に違憲と判断されて失効してしまったため、連邦初の森林施業規制も消滅してしまった。森林局はその後も私有林の施業規制にこだわり続けたが、政策的には地域の事情に合わせた州レベルの規制という方向に向かった。
 ニューディール時代のもう一つの大きな課題は、土地と自然保全に関わる政府機関の統廃合であった。そこで考案された計画は、森林局を内務省に移管させた上で省名を「保全省」に変えるというものであったが、森林局や関係団体は猛反対した。彼らの主張は、内務省における土地管理は非効率的でかつ国民利益を優先しておらず、国有林は農務省の下でこそ管理されるべきであるというものであった。しかし、ローズベルト大統領とイキーズ内務長官の改革意欲は高く、事態は動かぬまま数年を経た。結局、アメリカが第二次世界大戦へ参戦するという状況におよび、保全省問題は立ち消えになってしまい、森林局は統合をまぬがれた。

 第5章では、戦後の経済成長という時代背景の中で、木材生産の拡大路線を最重要視しながらも、アウトドアレクリエーションその他の利用形態も推進しようと努めた森林局が、多目的利用・保続収穫法を成立させるまでの道筋を論じた。
 森林局はこれまで、資源保管的な森林管理を続けてきたが、これはピンショー以来木材飢饉に備えて森林を守るという姿勢を堅持してきたことによる。国内の森林の多くは私有地となっており、木材生産も基本的に私有林から供給されることが望ましいが、そこでの資源に限界が見えたときにはこれに代わって国有林が国民の需要に応えるべく木材生産を拡大すべきであるというのが森林局の考え方であった。そして、今こそその時であるというのが第8代長官マクアードルはじめ森林局フォレスターの判断であり、国有林は木材生産中心の森林管理の時代に突入していった。
 国有林における木材生産の伸びは1944年の35億1,400万ボードフィートから1960年には94億9,000万ボードフィートへと3倍近い伸びを示し、これとともに森林局の収入も大幅に増え、創設以来初めて支出を上回るまでに成長した。これだけ急速な増産が可能であった背景には、(1)一時的な過伐ではない恒常的な生産拡大に対応できるだけの森林資源が国有林にあったこと、(2)林道・作業道その他の基盤整備が出来ていたこと、(3)議会の理解が得られ予算の拡大が可能であったこと、(4)増産を可能にするだけの人的・装備的・資本的な対応能力が立木を購入する木材産業にあったこと、(5)徹底した木材生産の拡大を推進する意志が森林局にあったこと、などの要因が考えられる。
 木材生産の急伸に数年遅れて、国有林を利用したアウトドアレクリエーションも急速に国民の間に浸透していった。1954年からの10年間でレクリエーション利用者数は4,000万人から1億3,400万人へと3.3倍に増えている。その要因としては、(1)人々が経済的に豊かになり多様な余暇の過ごし方を要求するようになったこと、(2)戦争中にアウトドア関係での大幅な技術進歩が見られたこと、(3)国有林に急増するアウトドアレクリエーション需要を受け入れるだけの豊かな森林が保護育成されていたこと、があげられる。
 こうした状況の中、木材生産とレクリエーションという異なる利用形態間の衝突問題が発生した。さらに、レクリエーション供給に関する国立公園局と森林局の葛藤も激化し、加えてウィルダネス保護地域の法制化を求める運動が全国的な展開を見せ始めた。国有林における森林管理方法に関する危機感を抱いた森林局では、従来からの国民のための森林管理という理念を明文化すべく多目的利用・保続収穫法案を議会に諮り、4年の歳月を経て1960年に同法の成立をみた。これによって国有林の管理目的は、アウトドアレクリエーション・牧草地・木材・水資源・野生生物と魚類の5項目であると規定とされた。

 第6章では、国有林における木材生産の伸展とこれに反対する環境保護運動という構図の中で、ウィルダネス法・国家環境政策法・国有林管理法などの法整備による議会からの森林管理への介入が進む時代における森林局の対応過程をみた。
 1963年には木材生産量が100億ボードフィートを突破し、1970年代末までこのレベルを維持した。大量の木材を効率よく生産する方法として、森林局では全国的に皆伐施業を採用したが、大面積で森林を丸裸にするこのやり方に各地で反対運動が起こった。特に、モンタナ州ビタールート国有林やウェストヴァージニア州モノンガヒーラ国有林における伐採反対運動は大きな問題となり、国民の森林局に対するイメージは悪化の一途をたどった。しかし、多くの批判を浴びながらも、森林局は木材生産中心の国有林管理という姿勢を堅持し続けたのであった。  また、1960年代および1970年代は、国有林管理に影響を与える重要な法律が数多く作られた時代であった。これを大別すると、(1)優れた景観や稀少な生物を後世に残すための保護法、(2)良好な自然環境を汚染から守るための規制法、(3)自然資源に関する計画や管理の方向性を定めた法律、とに分けることができる。
 (1)に関しては、原生的な自然地域を保護する1964年のウィルダネス法、1968年の原生・風景河川法および全国トレイルシステム法、1973年の絶滅の危機に瀕する種の法などがある。これらの法律は、環境保護という視点から国有林管理に対して一定の枠をはめるもので、議会や国民による監視という側面を持つものであった。
 (2)に関して最も重要な法律は、環境アセスメントを制度化した1970年の国家環境政策法である。国有林は同法によって、森林計画策定に際して環境影響評価を義務づけられることとなった。また、この時代には大気汚染や水質汚濁を規制するいくつもの法律が制定されたが、これらの法律は伐採をはじめとする森林施業に一定の拘束を強いるものであった。
 (3)に関しては、1974年の森林および牧草地再生可能資源計画法および1976年の国有林管理法がある。前者は、私有林や州有林も含めたアメリカ全土における森林・牧草地・内水面に存する再生可能資源の長期的な需給状況の把握のための計画制度を規定したもので、後者はこれを大幅に改定し、森林計画における複数回のフィードバック機構を備えた広範な市民参加プロセスを規定した。両法によって国有林における環境アセスメントはかなり充実した内容のものとなったが、逆にプロセスに金と時間がかかりすぎるものであったため、森林計画策定の遅延を招いた。

 第7章では、国有林に残る貴重な森林生態系とそこに棲む稀少生物種の保護論争を通して、大きく変貌を遂げつつある森林局の現状を論じた。多くの問題を抱えながらも、1960年代はじめから1980年代末まで、森林局の木材生産は高いレベルで推移した。しかし、いよいよこの姿勢を変革すべき時期が迫っていた。1970年代に太平洋岸北西部を舞台に起こったマダラフクロウの保護問題は、やがて全国的な注目を集める大問題に発展した。
 マダラフクロウはダグラスファーを中心とするオールドグロース林にのみ生息することから、伐採の進展とともにその個体数は減少しており、国有林がこれまで通りの木材生産を続ければ早晩絶滅するであろうことが危惧された。しかし、木材生産中心の森林管理という考え方を変えられない森林局は、木材生産と環境保護とのジレンマの中で十分な対応ができず、環境保護団体はもちろん木材業界からも提訴されるという事態を招いた。裁判所から伐採行為の一時差し止め措置を受けるなど混迷を深めたこの問題は、1993年に大統領に就任したクリントンの積極的な政治努力によって一応の解決をみた。これによって、アメリカ国有林システムにおいて中心的な木材生産地域であったこの地域における伐採量は従来の4分の1にまで縮小されることになった。
 クリントン大統領の示した新しい森林計画はエコシステムマネージメントと呼ばれる生態系重視の資源管理方法を基礎としているが、この考え方はこれまでの木材生産を重視する森林局の姿勢とは大きく隔たるものであった。1990年代に入って国有林における皆伐面積は急減しており、1989年には32万エーカーであった皆伐面積は1996年には5万7,000エーカーにまで減少した。また、木材生産量の減少に伴って職員数も減少傾向にあり、特にフォレスターの減少が激しい。エコシステムマネージメントが今後どのような展開を見せるかはまだわからないが、国有林管理の姿勢が大きく環境保護的なものに変わったことだけは間違いなく、この方向性は時代の要請に基づく不可逆的なものであるといえる。

 終章では、アメリカ国有林の100年にわたる歴史が、国民のための森林管理という視点からみたときどのように評価できるのかをまとめた。国有林管理において何が「国民のため」であるのかは自明ではないが、「最大多数の人々に最良のものを長期にわたって」提供するという初代長官ピンショーの功利主義の意味したものは、木材をはじめとする森林資源の供給であった。そうした意味において、〈資源保管的な森林管理の時代〉と位置づけられる最初の50年間については、資源供給量は少なかったがその蓄積を増大させ森林整備を行ったという点で十分評価できるものであった。
 〈木材生産中心の森林管理の時代〉と位置づけられるその後の50年間については、木材やレクリエーションの供給は大きかったが、結果として国民誰もが喜ぶような成果を挙げられたわけではなかった。すなわち、望まれなかったにも拘わらず木材生産ばかりに偏重してしまったことは誤りであった。しかし、焦点がずれていたあるいは変化についていけなかったとはいえ、国民のためにという国有林管理の理念は貫かれていたといえる。
 1990年代以降の〈生態系中心の森林管理の時代〉においては、これまでの生産中心の考え方から保護中心の考え方へと大きくシフトした。この変革が森林局内部からの必然的なものであると評価することはできるが、定着するかどうかは国民のサポートによるであろう。それは、裏を返せばエコシステムマネージメントによって国有林がどれだけ国民のために有形・無形の価値を提供できるかにかかっているということである。

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